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2014ワールドと日本海海戦「天気晴朗ナレドモ浪高シ」

 投稿者:KSR技術顧問 神谷喜由メール  投稿日:2014年10月24日(金)20時31分19秒 p4079-ipngn6801marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp
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  ARGブエノスアイレスでの2014オプティワールド、昨日からレースが始まりました。
2日目、4レースまでのリザルトではEYCJ小木曽涼君が善戦中です。
JPNの活躍を応援しましょう。

1999年3月、私はコーチ兼チームリーダーそして国代表として選手3名と共にブエノスアイレスでの南米選手権に行きました。
日本からは初めての参加でした。
(遠征内容詳細はブリテンJ-Sailing1999年7月号に当時のOP協会強化委員長「ワールドトップレベル挑戦の自覚」として投稿、オプティフリークの方は、JSAF取り寄せ、読んでみてください。)

1999南米ホストはYCAヨットクルブ・アルゼンチーノ、南米でも屈指の名門クラブで富裕層の社交場を兼ねたヨットクラブ、欧州から移民時代の象徴でもある古い灯台内部をダイニングにするセンスには脱帽でした。
アーリーアライバル期間は、宿泊費節約のために、今回のワールド・ホスト、郊外のクルブナウティコ・サンイシドロのキャビン(スパルタンな内装の掘立小屋)に泊まり、YCAまでレミス(割安の短期契約ハイヤー)で通いましたので、毎日が車窓観光でした。
ブエノスアイレスは戦前の栄華を残す建物や石畳み、「リトルパリ」と呼ばれるシックな空気感、週末には自宅への花束を抱えた男たち、私はすぐにこの街が好きになりました。

このクラブ所属のARGオプティセイラー、当時高校生のアレハンドロ・ソレとの再会もあり、その後の2003年頃のOP協会強化委員会主催の「外国人コーチプログラム」全国キャラバン/子供夢プロジェクトのアレハンドロ招聘に繋がっています。
アレハンドロのオプティコーチングは一流だったと思いますが、地球の裏側から単身来日して、母国語でもない英語でコーチングする大学生、その存在自体が選手への刺激や模範であり、当時の私たち協会関係者にとって、目指すべき目標でした。


ARGでの南米選手権に参加を決めた前年1998年が日本とアルゼンチンにとって修好百周年の特別な年だと、以下の内容を友人に教わりました。ブエノスアイレスでのワールド参加のJPN応援を兼ねて、紹介します。

1998年9月29日ブエノスアイレス。
大統領府のカサ・ロサーダ(バラ宮殿)で、秋篠宮殿下ほか日本代表団、メネム大統領ほかアルゼンチン代表団による、日本アルゼンチン修好百周年記念式典が、壮重かつ和やかに執り行われた。
中世の王宮サロンのような式場で交わされた両国のメッセージには、ともに修好後はや五年目に起こった歴史的出来事、つまり「日進」「春日」の譲渡が、深くてユニークな両国の友好関係の始まりであったことを再確認した。


日露戦争での日本海軍軍艦「春日」「日進」は建造中のアルゼンチン海軍の装甲巡洋艦を譲り受けたものでした。
当時の日本では軍艦を作る技術も能力も不足していたのです。
この建造委員長であったドメック・ガルシアARG海軍大佐(後に、海軍大将、海軍大臣)は日露戦争のARG海軍艦船武官として、「日進」に乗艦、帰国後に観戦報告書を執筆、自国海軍の発展とARG/JPN交流に寄与した。

あの「Z旗掲揚/戦艦三笠」「東郷元帥」「坂の上の雲/秋山真之」の日本海海戦にARG海軍大佐が乗っていたなんて、私には驚きでしたが、これらの史実を知っていた親近感により、異なる文化、異なる価値観の現地に到着してからも、すぐになじむことができました。

 
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